春分の日。彼岸祭。
やっぱりこちらのお坊様の読経は凄い。
私は目を瞑り合掌していたのですが、お坊様と地蔵菩薩の感応がべらぼうに強く高周波数すぎて立ちながら半トランスになっちゃっただよ。
不思議なことに(不思議でもなんでもないけど)、実父覚、白い輝く球体(水子ちゃん)、そして今は亡き愛猫ちはやとあやめの御霊まで現れた。
ちはやとあやめも私の大事な仔であるからかしら?
顕在意識ではやはりどこかで「猫は猫、ペットであるからして」という意識はあれど、
やはり私の潜在意識果ては無意識下ではたかだか猫であろうとも立派な正真正銘の我が子という括りなのだな、と。だから現れた。
父覚は母百合子より遥かに母性的でしたね。
むろん父覚は(強面かつ団塊世代の)男ですけどね。しかし鑑みるに、とても母性的な父。
母百合子は女だけど、父性も母性も無かった。
それがグッドとかバッドとか言いたいわけではなく。
厳然とした事実として。
彼女は死ぬまで女のコ。娘である私を愛してはくれたが、百合子はかわいい女のコでしかなかった。
本能ではなく、性質や特質上の話なのよ、母性とか父性ってのは。
もう本能とかいう表現も廃れようとしています。
本能さえ千差万別になりつつある。
だって性別問わずAセク(性欲皆無)の人間だってざらにいる。食べることに全く興味がない人間だっている。
だけれども不安に思うことはない。
なぜならばそれは人類の長い長い進化(神化)のプロセスの途中経過なのだから。