昨晩はH&Cセッションでした。
6回目の方。
イベントワークにもリンクすることですが 悪縁切れた後は良縁を紡ぎたいものですね。
悪縁切れてまた悪縁…ではなくてそこを良縁にするのには自分の意図的な努力も必要です。
トリッキーなのは 悪縁を良縁と違えたり良縁を悪縁としてしまったりする 自分の 色眼鏡(自我)の意識。
自分と性質が違うものを悪、自分と性質が同じものを善だという極めて幼稚な考えを認識させるような、 かなりきつい回でしたね。
自分とは違う性質・性格・反応(リアクション)を示す人を へぇ、私とは違うけどそれもまた面白いことだなと思えるぐらいがちょうどいいと思います。
日本は島国ですし 単一民族国家だから、どうしても自分と違うものを見ると恐ろしくなってしまい激しく否定したくなる部分はありますけど。
これは正直言って、都市部に住んでいる人よりも人口の少ない地方にいる方の方が やはり 顕著になってしまいます。
違ってて当然。
それはたとえ自分を産んで育てた親でもです。
それはたとえ自分が産んで育てた子でもです。
1つ 間違えないで欲しいのは その人のことが嫌いでもその人は無害かどうかを認識すること。
好きな人でも自分にとって有害な人、嫌いな人でも自分にとって無害な人という違いがあります。
嫌い=有害、好き=無害ではないのです。
残念ながら。
実害があったので、結果的に嫌になる 嫌いになるというのはあってもね。
例えばね。
緑翆のクライアントさんで、私 伊藤にはいい顔(良い人)をしていても別のクライアントさんに危害(迷惑)を加えるのならば、私は徹底的に排斥します。
これは 営業妨害に 匹敵するので、その人のことを個人的に好きだと思っていても、 個人事業主としては 嫌いになりますよね。
このようにある 側面によって 好き嫌いも 変わってきます。
残念ながら、真実は一つでもなければ、 白黒はっきりしてもおらず、世界というのは 極めてファジーな状態で成り立っています。
認識力を高めるとは そういった ファジーさを容認しつつ しっかり 自分のセンタリングをするということ。
この方は ファーストディグリー を受けているので 認識力が段違いに上がりつつあります。
人生において究極的な目的は、好き嫌い と ジャッジメントをしなくなるということです。 まぁ、現在のこの世そのものが未だに未熟な段階なので、一個人としても、そこまで人類は到達はできないものなのですが。
聖人ぶってる人ほど実は好き嫌いが極めて激しかったりするのも面白いんですけどね。
そして聖人を求める人ほど幼稚さも増す。
イベントワークにもリンクすることですが 悪縁切れた後は良縁を紡ぎたいものですね。
悪縁切れてまた悪縁…ではなくてそこを良縁にするのには自分の意図的な努力も必要です。
トリッキーなのは 悪縁を良縁と違えたり良縁を悪縁としてしまったりする 自分の 色眼鏡(自我)の意識。
自分と性質が違うものを悪、自分と性質が同じものを善だという極めて幼稚な考えを認識させるような、 かなりきつい回でしたね。
自分とは違う性質・性格・反応(リアクション)を示す人を へぇ、私とは違うけどそれもまた面白いことだなと思えるぐらいがちょうどいいと思います。
日本は島国ですし 単一民族国家だから、どうしても自分と違うものを見ると恐ろしくなってしまい激しく否定したくなる部分はありますけど。
これは正直言って、都市部に住んでいる人よりも人口の少ない地方にいる方の方が やはり 顕著になってしまいます。
違ってて当然。
それはたとえ自分を産んで育てた親でもです。
それはたとえ自分が産んで育てた子でもです。
1つ 間違えないで欲しいのは その人のことが嫌いでもその人は無害かどうかを認識すること。
好きな人でも自分にとって有害な人、嫌いな人でも自分にとって無害な人という違いがあります。
嫌い=有害、好き=無害ではないのです。
残念ながら。
実害があったので、結果的に嫌になる 嫌いになるというのはあってもね。
例えばね。
緑翆のクライアントさんで、私 伊藤にはいい顔(良い人)をしていても別のクライアントさんに危害(迷惑)を加えるのならば、私は徹底的に排斥します。
これは 営業妨害に 匹敵するので、その人のことを個人的に好きだと思っていても、 個人事業主としては 嫌いになりますよね。
このようにある 側面によって 好き嫌いも 変わってきます。
残念ながら、真実は一つでもなければ、 白黒はっきりしてもおらず、世界というのは 極めてファジーな状態で成り立っています。
認識力を高めるとは そういった ファジーさを容認しつつ しっかり 自分のセンタリングをするということ。
この方は ファーストディグリー を受けているので 認識力が段違いに上がりつつあります。
人生において究極的な目的は、好き嫌い と ジャッジメントをしなくなるということです。 まぁ、現在のこの世そのものが未だに未熟な段階なので、一個人としても、そこまで人類は到達はできないものなのですが。
聖人ぶってる人ほど実は好き嫌いが極めて激しかったりするのも面白いんですけどね。
そして聖人を求める人ほど幼稚さも増す。